2021年9月22日水曜日

創作理論の根幹を成す空白選択性とその方法について

創作理論における空白選択性、世界跳躍、sign、白紙法などについてある程度まとまったので投稿する。


1.空白選択性

人間には、空白に対して何かを選択する能力があります。

これを空白選択性と呼ぶことにします。


空白選択性は、一般にlive backgroundと情報統合性向場の関数です。

空白とは、前提条件を持たない埋めることが可能な領域、

live backgroundとは、私の今ここにおける全状態、

情報統合性向場とは、情報空間における統合的性質を持つ場を指します。

空白選択性は、一般にアイデアがどこから来るのかを説明します。


人があるアイデアを思いつくとき、つまりこの世界にある情報が出現するとき、それは私の全状態に依存します。

全状態とは文字通り全てであり、意識に上っているもの、無意識にあるもの、記憶、全ての身体的状態を指します。

人間の表現行為には、言葉や図形、身体的動きなど様々なものがあります。

これらの表層表現は、常に私の全状態とリンクした状態で存在しています。

強調の意味も込めて、私の全状態をlive backgroundと呼ぶことにします。

一言で言えば、空白選択性は、live backgroundに依存します。


空白選択性によって、アイデアが生み出されるとき、それは情報統合性向場ともリンクしています。

情報空間には「統合は生じる」という性質があり、その統合的性質が選択に有意味性を与えるためです。

私たちは常に情報統合性向場とリンクしていますが、その結びつきの強さはlive backgroundに依存します。

私たちは思考を通してlive backgroundを変化させることで、情報統合性向場とリンクし、その統合的性質の影響を受けています。


関数として表すなら、空白選択性は、

空白選択性(live background, 情報統合性向場)

という関数として表されます。

これが人間がアイデアを生み出すことができるということの根本的な説明です。


2.世界跳躍と時間

「統合は起こる」という前提に立つと、情報空間には統合という1つの大きな流れがあります。

この情報空間における統合方向を「時間」と呼ぶことは可能です。

創作理論において、時間という概念はおそらく必要ありません。

しかし、言語の中には時間的な語があり、それらを扱うために時間を定義しておくのは悪くないことです。


ある世界は、私たちの統合能力によって保持された世界、記憶された世界です。

まだない世界は、統合されていない、記憶されていない世界です。

空白選択性は、ある世界の要素だけでなく、まだない世界の要素を選び出すことがあります。

このような、まだない世界の要素をsignと呼んでいます。


signはある世界とまだない世界をつなぐ架け橋であり、標識としてまだない世界の方向を指し示します。

私たちはそのようなsignを手がかりに、まだない世界を統合することができます。

このような、signによってある世界からまだない世界が統合されることを世界跳躍と呼ぶことにします。

時間的に言えば、signは断絶された過去と未来をつなぎます。

創作においても、signを見つけることで、ある世界からまだない世界への跳躍を行うことができます。


3.signと感覚量

signは、未知性かつ重要性という感覚で捉えることができます。

signは、まだない世界の要素ですから、統合された意味を持ちません。

また、まだない世界の方向を示していますから、示しているという志向性は受け取ることができます。

その結果、「よく分からないが、重要そうな感じがする」という感覚量となります。


私たちは、思いつく前に思いつく内容を知ることはできません。

しかし、あることが重要かもしれないということは知ることができます。

例えば、森の入り口に立って、森の奥底に何があるかを知ることはできません。

ですが、森が「深そう」といった感覚は、森に入る前に持つことができます。

signに伴う感覚量は、こういった感覚量と同型です。


空白選択性によって生じる選択の中から、signを見つけ出すにはこの感覚量を探します。


4.一般的sign発見の手順

signは、一般に空白選択の列によって生じます。

空白選択とは、空白選択性により空白に何かを選択することを指します。

空白選択によって生じる要素は、一般にsign、memory、knowledgeなどがあります。

signは、一般にそれらの列(空白選択列)の中から発見されます。


一般的なsign発見の手順は次の通りです。

①空白選択を行う

②選択されたものがsignであれば終了、signでなければ①へ戻る。何も選択されない場合は③へ

③空白選択列を俯瞰し「何が重要であるのか」を捉えたのち、①に戻る


5.具体的sign発見の手順、白紙法

最後に、空白選択を白紙の紙で行う白紙法について述べます。

白紙法は白紙の紙を用いて空白選択を行う方法で非常に基本的な方法です。

白紙法に必要なものは、白紙の紙と筆記具です。


①空白選択の始まり

白紙の紙を用意したら、まずタイトル的なものをつけましょう。何でも良いですが、作品のタイトル、○○とは何か、○○について、などがおすすめです。

タイトル的なものはなくてもよいのですが、live backgroundに無意識的な志向性を与えてくれます。


②空白選択を行う

白紙の紙の空白に、何か書き込んでみましょう。最初は、今考えている事柄についてのキーワードだったり、記憶よりのものが選ばれると思います。書いている本人でも意味が判らないこともあります。

空白選択は無意識が行うので、選択に意味を求める必要はありません。選択されたものをそのまま書きましょう。


③空白選択を続ける

何か書き込んだら、別の空白に何かを書き込んでみましょう。紙は二次元的な広がりがあるので、下でも横でも好きなところでかまいません。何となくこの辺に書きたいということも無意識が選択するので、それに任せます。

空白に書き込むたびに、live backgroundは変化していき、また別の言葉や記号が選ばれます。


④書き込んだものを俯瞰する

ある程度、書き込みが溜まってきたら、これらの書き込みの中で「何が重要なのか」という視点で眺めてみてください。

途中で選択が停止してしまった場合も同様です。

書き込みの俯瞰タイムは、live backgroundをより関心のある方向へ整えます。

何が重要なのかが無意識に修正されると、空白選択性が働き、より関連性の高い要素が選ばれるようになります。


⑤signの発見

空白選択によって、「よく分からないが、重要そうな感じがする」要素が選択されれば、それがsignです。

signは、すでにあるイメージの中にはない要素ですので、感覚としてはすぐに分かります。

signが見つかったら、それをよく意識してください。


⑥まだない世界の発見

signを発見したら、それを踏まえた上で、空白選択を続けてみましょう。

signを発見したことで、今まで考えもしなかったことが選択されて出てくると思います。

これがlive backgdoundと情報統合性向場がリンクした状態です。

感覚としても感情としても、よりはっきりとしたアイデアが統合されると思います。

新しいアイデアかどうかは、今までに考えたことがあるかどうかという観点からも確認できます。

まだない世界が統合された瞬間です。


⑦終了

ある程度満足したら終了しましょう。必ずsignを見つけなくてもかまいません。

統合されたアイデアは記憶されるので特にまとめる必要はありません。

まとめておきたいことがある場合は、別にまとめると良いでしょう。

ただし、時間が経つと書いたものとlive backgroundとのリンクは切れた状態になります。

メモは単なる記録で、次回のセッションには引き継げないので注意してください。

Every time, from scratch.(いつでも、白紙から)です。


⑧無理そうなとき

どうしても集中できない日などもありますので、空白選択に抵抗を感じた場合は、無理にやらない方がよいです。空白選択は無意識の方法論ですから、無意識の抵抗にあえばうまくいくことはありません。そういった感覚は経験的に分かるようになると思います。


2014年3月18日火曜日

言葉とは何か?/言葉と創造性について

言葉は行為であって記号ではない。

言葉の本質は行為にあり、それは言葉を書くことに他ならない。
書くことは、概念を“今ここ”に結びつけることであり、記号を記すことではない。

我々は書かれた文字ではなく、書くという行為に目を向けなければならない。

言葉の表現としての記号は不変だが、“今ここ”という瞬間は不変ではない。
“今ここ”という瞬間は、常に忘却という波に流されている。

創造とは、今ここに結びつけられた概念が新しい概念への道筋となることである。

その点において、言葉を書くことと、言葉を読むことは本質的に異なる。
前者は創造を伴うが、後者は創造を伴わない。

読むこと、思い出すこと、それらは“今ここ”を束縛する。
読むことは美しい。しかし、それは創造的ではない。

創造は書くことの中にある。それはいつも白紙から始まる。

創造の前に、鞄から何かを取り出すことは害である。
人は重要でないものを忘れる。それが我々を白紙にする。

我々は白紙の上に書く言葉を選ぶ。それは重要さに基づく選択であり、機械にはなしえないことである。

Every time, from scratch.(いつでも、白紙から)

言葉という行為は我々をもっと自由にする。

2013年7月21日日曜日

【ストーリー解析】「風立ちぬ」

2013/7/20に公開されたアニメ映画「風立ちぬ」のストーリー解析を行う。

*完全なネタバレなので、まだ観てない人はぜひ観ましょう。



■スタッフ
監督・脚本・原作 - 宮崎駿
作画監督 - 高坂希太郎
美術監督 - 武重洋二
音楽 - 久石譲
制作 - 星野康二 スタジオジブリ
配給 - 東宝
原作掲載 - 月刊モデルグラフィックス

監督はもちろん宮崎駿。2008年の「崖の上のポニョ」以来で、上映時間は126分。実在の航空技術者堀越二郎や、堀辰雄の小説『風立ちぬ』をベースとしつつも、映画作品としての本作のストーリーは大部分が宮崎駿の手によるものである。

■声優
堀越二郎 - 庵野秀明
里見菜穂子(さとみ なおこ) - 瀧本美織
本庄 - 西島秀俊
黒川 - 西村雅彦
黒川夫人 - 大竹しのぶ
カストルプ - スティーブン・アルパート
カプローニ - 野村萬斎

声優で特筆すべきはもちろん庵野秀明。個人的にはかなりマッチしていたのではないかと思う。イケメン声でないところに好感が持てる。また、ヒロイン役の瀧本美織には惚れざるをえない。黒川役の西村雅彦もいい味を出していた。

■映像・音響
SEが良い感じだった。なんと人の声で表現するという試みのようだ。SEに存在感があり、航空機の臨場感を高めている。
一方で、映像については、アリエッティやコクリコ坂と同じで、ぼてっとしてしまらない感じ。少なくとも、映像美で魅せる作品ではない。ただカットやコンテの美しさはさすがといったところ。

■総評
およそ宮崎駿にしか描けないであろう現代アニメ映画の特異点である。着眼点が現代の日常とは大きく異なっており、その特異性だけで名作として数えられることは間違いない。全体を貫くのは忠実さや健気さ、悲哀といった美意識であり、それによって何か良くわからない心の内を掴まれた気分になる。
しかしながらストーリー展開は王道かつテクニカルで心地よい。

この映画は観客を特定のイデオロギーに扇動することも、娯楽に酔わせることも無い。ただ実直にストーリーは進行し、アニメを観ようとする(あるいは娯楽を求めようとする)者に対して、実直に生きることを薦めているのではないかとさえ思える。この作品は、生きることそのものではなく、「われわれが」生きることそのものであるということを証明したのかもしれない。


■ドライバー

本作のメインドライバーは次の2つ。

①二郎と菜穂子の愛と別れ(L-L-F-L-F-(L))
②二郎の美しい航空機を作りたいという夢の実現(L-F-F-L)

また、サブドライバーに

③関東大震災で菜穂子とキヌを助ける。(E-G)
④カプローニ氏との夢での出会い(P)
⑤本庄との友情(L-L)
⑥ドイツ訪問(P)
⑦カストルプとの出会い(P)

などがある。本作のストーリーの根幹は、①と②およびその接合方法にある。

まず、もっとも観客の目を引きつけるのは、①の「二郎と菜穂子の愛と別れ」である。これは、分かりやすい悲劇であり、結核という病魔との闘いの中で菜穂子の健気さが何倍にも強調される展開となっている。
また、②の「失敗を繰り返しながら成功へ向かう航空機設計技師としてのストーリー」も極めて分かりやすい。

だが、本作がすごいのはそれだけではない。本作ではそれらのストーリーを単に並行させるだけではなく、2つの間に明確な優越をつける工夫がなされている。それは②のストーリーのクライマックスにあたる飛行テストのシーンで成されている。

このシーンは、単純に考えれば、二郎が成功を喜んで終り、あるいは駆けつけた菜穂子も一緒に喜んで終りという終わり方も十分に可能である。というよりそれが普通である。しかし、実際には、二郎は喜ぶことなく、菜穂子との別れを超越的に悟るという演出がなされている。これは、二郎にとって「航空機の成功」は、「菜穂子への愛」には遠く及ばないということを示している。これによりドライバーの優劣は完全に決着し、最大のドライバーは①であることが分かる。そして、それがラストシーンへとつながっていく。
ラストシーンでの、菜穂子の「生きて」というメッセージと二郎の「ありがとう」というメッセージは極めてポジティブであり、これによって本作はハッピーエンドという最高の状態で終わる。
本来ハッピーエンドであるはずの夢の実現を空振りさせ、尚且つ、本来バッドエンドである恋人との別れをハッピーエンドで終わらせるというのは何とも見事なストーリー展開である。

唯一残念なのはPドライバーが多くて中盤のストーリー強度が低いことぐらいか。


■ストーリー詳細

覚えている限りのおおよそのストーリーは次のようなもの。大分省略している。

P 堀越二郎少年は航空機の夢を見る。

L 二郎は夢の中で、航空機設計技師のカプローニ氏と出会い、飛行機の設計士になることを決意する。

P 成長した二郎は、設計技師になるための技術を学ぶ為に機関車で上京する。

L 二郎は車中で、菜穂子と付き添いのキヌと出会う。

E 関東大震災により、機関車は急停車し、乗客は機関車から逃げ出していく。

G 二郎も機関車を後にしようとするが、菜穂子とキヌが立往生しているのが目に入る。

G 二郎は、骨折しているキヌをおぶって菜穂子と避難する。(添え木として計算尺を使う。)

G 二郎は2人を無事に家族に引き渡した後、名を告げずその場を去る。

P しばらくして、二郎は友人の本庄と共に設計技師学校で生活を送る。

LF 菜穂子から二郎宛に計算尺とお礼の手紙が届くが、再会は果たせない。

P その後、二郎と本庄は名古屋の航空機メーカーに就職する。上司の黒川、服部らと出会う。

LF 入社してはじめて関わった航空機のテスト飛行が行われたが、航空機は墜落する。

P 二郎と本庄を含むメーカーの社員らは、技術契約を結んだドイツの航空機メーカーを訪れ、その技術力の高さを目の当たりにする。

L 出張後、二郎が新しい航空機の設計チーフに抜擢される。

F 初設計の機体はテスト飛行でまたも空中分解、墜落してしまう。

P 二郎は休暇でホテルを訪れる。

L そこで二郎は菜穂子と再会する。

P 二郎はカストルプと出会う。

LE 二郎は菜穂子に交際を申し込むが、菜穂子は結核を患っていることが明かされる。

LF 二郎はすぐさま菜穂子に結婚を申し込むが、菜穂子は結核が治ることを結婚の条件にする。

L 会社に戻った二郎は新しい小型飛行機の設計を任される。

F 製作は順調に進んでいたが、菜穂子が吐血したとの電報が届く。

L 二郎は急いで東京の菜穂子の家に向かい再会する。

G 菜穂子は結核を治すため高原病院に入ることを決意する。

L 航空機の製作は順調に進む。

LE 菜穂子は気持ちに耐えられなくなり、病院を抜けて二郎の元へやってくる。

L たとえ病気が重くとも一緒にいるべきだと決意した二郎と菜穂子は黒川の家で祝言を挙げる。

L 二郎と菜穂子はひと時の幸せを掴む。

L 航空機が完成し、二郎は飛行場へ向かう。

F 菜穂子は二郎を見送った後、自身の病状を悟り、置手紙を置いて高原病院へ戻る。

L 二郎の設計した航空機は高い飛行性能を示し、飛行テストは大成功となる。

F しかし、飛行テストとは裏腹に、二郎は菜穂子との別れを直感的に悟る。

P それからしばらく経ち、夢の中で二郎はカプローニ氏に再会する。

L その夢の中に菜穂子が現れ、二郎に「生きて」とメッセージを送る。二郎は「ありがとう」と返事をする。

(おわり)


■いくつかの問題点

①本庄の役割は?
本庄は出張る割にストーリー上の役割が無い。

②ドイツ訪問がただの説明になっている
ドイツ訪問はストーリー上の役割が無くただのPドライバー。

③カプローニさん出すぎです。
はじめと真ん中、終りの3回で十分?

④カストルプとはいったい
スパイだったのか何だったのか。また二郎が秘密警察に追われる理由も特になしってどうなの。

■改善案

Pドライバーは少し減らしても良いでしょう。

2013年7月5日金曜日

「かわいい」という危険思想

世の中には「かわいい」ものがあふれている。萌え文化の隆盛、ゆるキャラの勃興、アイドルグループの乱立、犬猫動画の拡散、その背後には「かわいい」という共通の価値観が存在する。多くの人が「かわいさ」を肯定し、それが心に安らぎを与えてくれるものだと好意的に解釈している。

しかしながら、私はその「かわいさ」に対して危険を感じずにはいられない。われわれは、「かわいい」に支配されているのかもしれない。

今回は「かわいい」とは何か、そしてその危険性について考えてみようと思う。


■かわいいとは何か?

そもそもかわいいとは何だろうか。その性質を分類してみると、以下のような3つの性質があることが分かる。

①女性的である
②小さい
③幼児性がある

これらの性質のうち1つでも満たしていればかわいいと呼ぶことができるようだ。

1つ目は、女性的であることである。男性にとってはセックスアピールがあるといっても良い。

男性から見る場合、かわいいは萌え系やアイドルなどに当てはまる。ただし、露骨なエロではなく、それを期待させるものである。これは、脳のプライミングの結果である。かわいい=エロではないが、それと隣接する領域であることは間違いない。

一方で、女性から見る場合は、性的であることではなく、女性らしさとほぼ同義である。女性らしさを想起させる場合には全てかわいいと評されるようだ。

2つ目は、小さいことである。これは単純な大きさのことである。同じ属性を持つもので、大きさが違う場合、小さいものの方がよりかわいいと判断される。例えば、キャベツとメキャベツはメキャベツの方がかわいい。ただし、小さければ小さいほどかわいいとは言えない。

どれが一番かわいい?

3つ目は、幼児性があることである。赤ちゃんや、幼児などがこれにあたる。また、年齢的なものでなく、幼児的な性質でもかまわない。例えば、無邪気、おっちょこちょい、甘えん坊、恥ずかしがり屋などはかわいいとされる。

これら3つを合わせて考えてみると、かわいいとは基本的には「保護の対象」に向けられる感情で、男性の場合「生殖の対象」でもありうるといえる。だとすれば、かわいいは種の保存と関係しており、人間にとってかなり普遍的な感情だと言えるだろう。


■かわいいの何が危険か

かわいいの危険性には、2つの側面がある。

1つ目は、かわいいの対象が本来の種の保存と関係のないものに拡大しているということである。2次元キャラも、アイドルも、ゆるキャラも、犬猫も人間が本来必要としているものではない。これらは、人間が遺伝的に持つ「かわいさ探知機」をいたずらに刺激しているものかもしれない。われわれは、かわいさに直面したときに、それが自身の何を刺激しているのかを冷静に分析する必要がある。

問題は、これらが本来の保護すべき対象、パートナーや乳児、幼児を越える可能性があることである。もし、かわいいという基準に従うことによって、本来保護すべき対象が除外されるなら、それは本末転倒と言わざるをえない。極論すれば、アフリカの飢えてる子供と二次元キャラのどちらがかわいいかという問題である。

現代では、かわいいは本来の役割を失った「娯楽」にすぎない。それを忘れたとき、かわいいは非常に危険な思想である。この場合、かわいいから保護するのではなく、保護する為にかわいいという感情が備わっていると解釈すべきだろう。

2つ目は、かわいいによる文化の破壊である。もし、かわいさが種の保存と関係しているなら、その感情はかなり本質的である。その場合、他の抽象的な概念よりも優先される可能性が高い。例えば、かっこいいという概念は、かわいいに比べ弱い。かわいいは本質的だが、かっこいいは遺伝子レベルで本質的とは思えないからである。人間には、美意識や、尊敬、誇り、克己心など、様々な感情があるが、それらを理解するにはある程度の訓練が必要だ。子供の感情の発達過程を見れば、これらの概念がかわいいよりも後に獲得されることは明らかだろう。

かわいいは、単純で強力だ。しかし、それは世界の原始的一側面にすぎない。かわいいは重要だが、すべてではない。われわれを取り巻く世界は、もっと多様で高度な関係性がある。それをわれわれは文化と呼ぶのである。かわいいによってコードされたものばかりを追い求める社会は異常である。かわいさに関係付けられることは悪いことではないが、そこには奥行きが必要である。
もし、その奥行きが不要というのであれば、それは文化に対しては破壊的である。


■かわいいの深化?

現代をかわいい探求時代と言うことも出来るかもしれない。ツンデレ、ヤンデレ、クーデレ、……、近年命名された概念は少なくない。「あざとい」という言葉も一昔前には聞かなかった。また、ファッション業界の推進により、化粧や服装などのバリエーションも拡大している。
しかし、キャラクターデザインの変化や、一昔前のルーズソックスの衰退ぶりをみてみると、「かわいい」の対象は普遍ではなく、モデルチェンジによって駆動されているようだ。

どうも、子供がかわいいや、犬猫がかわいいは普遍的な概念のようだが、女性的なかわいさは作られたもののようである。そう考えると、現代のかわいさのバリエーションの増加は、単なる情報化社会の流れに沿っているだけだろう。簡単に言えば、モデルチェンジのスピードが速くなっただけのことである。

ツンデレのように概念が確立されるということはあるだろう。しかし、その中で普遍的なものはやはり、小さいものと幼児性のあるものだろう。そういう意味では、多くのかわいいは流行の産物である。流行を流行と知って追いかけることは娯楽だが、それを普遍的価値だと勘違いすることには弊害がある。それが非進歩的なノスタルジーに変わることは明白だからである。

作られたかわいいは古くなる。それは避けられない道である。そのようなものに貴重な時間を割くのは本当に重要なことだろうか?

クリエイターは、かわいいの背後にある文化にこそ力を注ぐべきではないだろうか。

2013年6月25日火曜日

【ストーリー解析】「攻殻機動隊ARISE border:1 Ghost Pain」

2013/6/22に公開されたアニメ映画「攻殻機動隊ARISE border:1 Ghost Pain」のストーリー解析を行う。

*完全なネタバレなので、まだ観てない人は観ましょう。

















■上映時間
59分。4部方式での公開が予定されており、その第一弾である。

■スタッフ
原作 - 士郎正宗
総監督、キャラクターデザイン - 黄瀬和哉
シリーズ構成、脚本 - 冲方丁
アニメーション制作 - Production I.G
製作 - 「攻殻機動隊ARISE」製作委員会(バンダイビジュアル、講談社、電通、プロダクション・アイジー、フライングドッグ、東宝)
配給 - 東宝映像事業部

劇場特典の小冊子によると、士郎正宗がARISE全体のプロットを用意したようだが、冲方丁もある程度自由にプロットに関わっているらしい。おおよそ、この2人でストーリーは決定されたと推測できる。

■声優
草薙素子 - (田中敦子) → 坂本真綾
荒巻大輔 - (阪脩) → 塾一久
バトー - (大塚明夫) → 松田健一郎
トグサ - (山寺宏一) → 新垣樽助
パズ - (小野塚貴志) → 上田燿司
ロジコマ - 沢城みゆき
クルツ - 浅野まゆみ
ライゾー - 星野貴紀
()内は旧キャスト。

主要メンバーのキャストが一新された。しかし、新キャストである違和感はほとんど無かった。唯一、バトーの低音が響きすぎていて耳についた。音響のせいもあるかもしれない。
ただし、演技と言う意味では、まだ自由に感情を出せていない感じがする。キャスト変更に対するプレッシャーからか、声色が一定で押し殺したような堅苦しさを感じた。

■音響・映像
自分が観た劇場では、音にだいぶ迫力をつけているように感じた。最初の雷の音だったり、衝撃音だったりが、かなり強調されている。
映像は、他のアニメ映画と比べて特にすぐれているというわけではない。ただ、アクションシーンは気合を入れていることが伝わってきた。

■総評
ストーリーが淡々として映画として成立していない(後述)。これは単なる謎解きだけで感情描写をおろそかにしたことが原因である。結果的に、「SOLID STATE SCIETY 3D」の時と同じで感情移入のしにくい作品となっている。
音響を除けば、劇場の大画面で観る必要もあまり感じられない。ARISEシリーズは、まったく新しい功殻機動隊を目指して作られたらしいが、旧作と多少見た目が違うという以外に目新しさは感じられない。新キャラクターはどこかで見たような感じだし、従来メンバーもちょっと若返ったぐらいの印象しかない。TVアニメでハマった自分としては、ちょっと残念である。


■ドライバー分析
本作のメインドライバーは次の2つである。

①マムロ中佐殺害事件の真相を暴く(E-G)
②素子が擬似記憶作成ウイルス「ファイア・スターター」の存在に気がつく(E-G)

①が最大のドライバーであり、②がネタバレにあたる。またサブドライバーとしてARISEとしての位置づけ、

③公安9課の特殊部隊(功殻機動隊)設立への経緯の紹介(P)

や、他のメンバーの動き、

④荒巻、トグサ、パズ、バトーらがそれぞれ中佐事件を捜査する。(E-G)

などがある。


■ストーリー詳細
覚えている限りで、ストーリーをまとめる。劇場特典の小冊子にもストーリーの大半が書いてあったので参考にした。専門知識の多い作品なので、筆者の知識では補完できない箇所もある。

G 雨降りしきる軍人墓地。公安9課の荒巻は、7日前に殺害されたマムロ中佐の死の謎を解明するため、部下に指示して中佐の墓を掘り起こそうとしていた。また、中佐には収賄容疑がかけられていた。

E しかし、そこに中佐の元部下であり陸軍501機関所属の草薙素子(以下、素子)が妨害に現れる。

G 場の職員達に緊張が走ったが、荒巻が自分と中佐が旧知の仲であり、事件解明のために必要な捜査であると説明すると素子は棺を検めることを了承する。

E しかし、棺から出てきたのは中佐の義体ではなく少女型の自走地雷であった。

G 突如襲い掛かってきた自走地雷を素子が破壊する。

P 素子は帰国直後中佐から、メッセージとディスク、拳銃を受け取っていた。

G(E)501機関に戻った素子は、上官のクルツに中佐の捜査を願い出るが快い返事をもらえない。

E 自室に戻った素子は、突然背後に自走地雷を目撃する。しかし、幻だったのか、どこにもいない。

G 翌日、素子は中佐の当日の行動をトレースする。そして監視カメラの映像から尾行者の存在を知る。

E 素子は、突如右手の謎の痛みに襲われる。ツムギのラボで検診を受けるが義体に異常は無い。

LF 素子は501部隊からの独立を望んでいたが、それを保証する中佐の推薦状などが、中佐の収賄容疑で無効になると告げられる。

P そんな矢先、荒巻が素子に中佐の口座から消えた金の流れと棺の記録解析を依頼してくる。

P 荒巻に、自身の多額の送金記録について聞かれた素子は、義体化の恩人への送金だと説明する。

G 依頼を受けた素子は、新浜県警察署で捜査にあたるトグサに目をつけ、尾行者のデータをリークする。

E そのとき何者かが電脳に侵入した気配を感じ、屋外へ飛び出す。

E 不審車を見つけるが、ライゾーから脱走者として制圧される。(この侵入者はバトーである。)

P 依然、501機関の捜査協力は得られない。

P 荒巻から護衛兼連絡役のロジコマが送られてくる。

G ロジコマから陸軍警察の捜査情報を得て、ニューポートシティの古びたビルに向かう。

G そこで、陸軍警察の潜入捜査官であるパズから自走地雷の出所が第六演習場であるという情報を得る。

E 501機関に戻った素子は、ライゾーから捜査を続けるなと脅しをかけられる。

E 自室に戻った素子は、ふたたび自走地雷を目撃する。しかし、やはり姿はどこにもない。

P 第六演習所に侵入した素子は、独自に動いていたトグサや、あるレンジャー隊員の殺害容疑者として素子を追っていたバトーと鉢合わせる。

E(G) バトーが素子に襲い掛かる。バトーによると、素子がレンジャー隊員の殺害に使用された自走地雷を入手していたという。しかし、素子には覚えが無い。

P また、素子の右腕に痛みが走る。

E 尾行者としてリストされていたアムリとモウトが現れ、大量の自走地雷と共に襲い掛かる。

G フェンスに追い込まれた3人だったが、パズに助けられる。

P パズによって荒巻のところに連れて行かれた素子は、自身があらゆる点で容疑者だと告げられる。

G 素子は、周りの状況と事件の整合性から自身の記憶の異常に気がつく。

P また、素子の右腕に痛みが走る。

G ロジコマに自身の視覚データを同期させた素子は、真実の世界に気がつく。自身の視覚データは偽装記憶ウイルス「ファイア・スターター」により改ざんされており、自分の部屋には自走地雷がおり、送金相手だと思っていた写真の女性は存在せず、中佐から受け取ったはずのディスクも消えていた。

G 素子は、中佐の墓地を再び掘り返し、ニセの棺のさらに下に埋まっていた本物の棺にたどりつく。

P 中佐の義体から情報を得た素子は、自身が7日前に帰国したこと、死亡直後の中佐の電脳に同期したこと、そこで偽装記憶ウイルスに感染したことを知る。

G 素子は、中佐の口座から自身の口座に送られていた現金をエサに真犯人をおびき寄せる。

P そこに現れたのはライゾーであった。

EG 襲い掛かるライゾーを激しい戦闘の末、倒す。

P そこにクルツが現れ事件の全貌を語る。

P 素子は、中佐が国の軍事兵器の違法売買を公表しようとしていたこと、501機関の存続のためには、中佐の排除はやむを得なかったことなどについて一定の理解を示す。

G 素子はツムギのラボで、偽装記憶ウイルス「ファイア・スターター」による改ざんを受けた記憶部位の除去を行う。

G 素子は事件を違法売買の公表をもみ消そうとした大臣を襲撃する。

P 中佐の容疑が晴れ自由な身分になった素子の前に荒巻が現れ、新組織が設立される見込みであること、素子を特務コンサルタントとして迎える準備があること、部隊は6名から構成可能であることなどを告げる。

(border:2へつづく)

色々込み合っているが、ストーリーの要所は先ほどのドライバーで示したとおり、事件の究明と、素子の偽装記憶の払拭にある。


■いくつかの疑問点

①501部隊はどうなった?
中佐を殺害した501部隊はお咎めなしなの?それでいいの?
実行犯のクルツともなんか仲良さげにするし、事件の決着が中途半端だ。素子が何をしようとしているのか分からなくなる。レンジャー隊員も死んでるし、何らかの形で裁かれる必要があったのではないだろうか。

②偽装記憶ウイルスってなんぞ
偽装記憶ウイルスの正体が良く分からない。501部隊が中佐の電脳に仕掛けたものなのか?それともまったく出自不明なのか?作られた記憶は、なぜ都合よく素子を犯人に仕立て上げたのか?あるいは任意の記憶へ操作可能なのか?
右腕の幻肢痛は「記憶の持ち主」を示唆しているのではないのか?

③自走地雷はどういうルートで素子の部屋に?
よくわからん。バトーによると素子が購入したらしいが、偽装記憶がそうさせたのか?だとしたらなぜ?

④中佐を撃ったのは誰?
作中ではクルツっぽかったけど、自殺と言う説も。BDに書いてあるとかなんとか。

■改善案

本作のストーリーの問題点は、エモーショナルラインがはっきりせず、また、ARISEのパート1としても新鮮味にかける点である。そこで、次のような設定を考慮するといいかもしれない。

①偽装記憶による「偽りの温かみ」の導入
本作の素子はまったく新しい功殻と言いながら、相変わらず端的で強い女である。冲方はインタビューで、草薙素子を女性として描こうとしたなどと言っているが当の素子にはそんな素振りが毛ほども無い。若くなって色気がなくなっている分、より女性らしくなくなっているようにさえ思える。
そこで、偽装記憶に次の設定を入れる。

・偽装記憶ウイルスは、501部隊が仕掛けたものである。
・偽装記憶ウイルスは、中佐の記憶を利用し事件の隠蔽を図るようプログラムされている。
・偽装記憶ウイルスは、中佐の娘の記憶データを利用して素子の記憶を偽装した。
・右腕が痛むのは、義体化した中佐の娘が持っていた症状の再現である。(つまり、娘の記憶を使って偽装されているときに痛みは起こる。)
・素子は、旧作ではありえないような感情の表し方をする。例えば、中佐を父のように慕ったり、墓を荒らす荒巻に怒ったり、義体化の恩人を想ったり。視聴者は驚く。(ただし、後にウイルスの影響と分かる。)
・素子は、偽装された記憶部位を切除し、旧作ライクなニヒルな性格に戻る(=ARISE)。
・視聴者は、どこまでが素子の「元の」性格なのか分からない。それがボーダー。


本作でも、最後の記憶を消去する場面で偽の記憶が温かみを持って描かれていた。それをより全体に適応するということである。ストーリー全体は、単に偽装記憶ウイルスに気がつくというサスペンスだけでなく、偽りだが温かみのある記憶との決別を主軸に置く。例えば、写真を大事そうに眺める演出を強化しても良いだろう。そこに人間らしい脆さを持つ素子が描ける。

事件だけでは、視聴者を引き付けるストーリーとしては弱い。事件の顛末だけでなく、(偽りの)少女草薙素子の寂しさや愛しさをストーリーに加えるべきだった。

これにより、感情豊かだがどこか違う素子から出発して、整合性の取れた素子へと終着する。文字通り、視聴者も偽の記憶に騙されるのだ。















②クルツは解任
クルツが自首してけじめをつける(ただし、クルツが撃ったのならば)。どうもクルツをカッコよく描きたいようなので、豚小屋にぶち込むよりも、カッコよくけじめをつけてもらう。データは結局公表されないで、事件は闇の中、ただしクルツは解任というあたりの結果で収まるのがいいかもしれない。さすがに1時間かけた事件には落としどころを用意して欲しい。


以上の2つで、ある程度感情移入しやすいストーリーになると思われる。

2013年6月1日土曜日

【ストーリー解析】「言の葉の庭」

2013/5/31に公開されたアニメ映画「言の葉の庭」のストーリー解析を行う。

*完全なネタバレなので、まだ観てない人は観ましょう。



■スタッフ
監督・脚本・原作 - 新海誠
作画監督・キャラクターデザイン - 土屋堅一
美術監督 - 滝口比呂志
音楽 - KASHIWA Daisuke(柏大輔)
制作・著作 - コミックス・ウェーブ・フィルム
配給 - 東宝映像事業部

監督・脚本・原作は新海誠。絵コンテも切ったとラジオで言っていた。なので、ストーリーは新海さんが決めたと思っていい。
ちなみに上映時間は46分で、普通のアニメ映画の半分ぐらい。ただし、ストーリーボリュームは一時間分ぐらいあると思う。

■声優
タカオ(秋月 孝雄)- 入野自由(いりのみゆ)
ユキノ(雪野 百香里)- 花澤香菜

主人公、ヒロイン共によい演技だった。花澤さんは、普段萌えキャラを演じることが多いので、一瞬ユキノとはミスマッチに聞こえる。しかし、大人な花澤ボイスというのもなかなか魅力的でぞくぞくした。

中の人の私生活とダブらせてしまうと、バーチャル香菜みたいな感じでより楽しめる(妄想です)。女性声優好きとしては、普段聞けない花澤ボイスだけで観る価値あり。

■映像・音響
特筆すべきは、雨表現の豊かさ。特に水面や、濡れたタイルには目を奪われる。一部CG?なのかな。そのすごさは、開始の1カットで分かるレベル。色々な雨の形態にもこだわっている。
また、激しい雨音や雷音もいい演出だった。

■総評
本作品の見所は、次の3点。

①雨表現
②ユキノの表現(眼差し・仕草・声)
③文学的なモチーフ

アニメとしては非常に完成度が高い。日本の多様な雨を描いた作品としては、素晴らしい内容。また、ストーリーもよく練られている。ただし、設定や終わり方には若干違和感がある(後述)。とはいえ、花澤好きは必見だし、声優ファンでなくとも、映像作品、あるいは文学作品として観る価値は十分にあると思う。是非多くの人に見て欲しい。


■ドライバー分析

さて、続いてストーリーの解析に移る。まず、ストーリーを構成するメインドライバーは、次の2つ。

①タカオのユキノへの恋心(L-L-F)
②タカオがユキノの再出発を助ける(E-G)

一見、本作は単純な恋愛もの「タカオとユキノの恋(L-L)」に見える。しかし、実際には②の「タカオがユキノの再出発を助ける(E-G)」が最大のドライバーである。

公式では、本作を「恋」ではなく、愛に至る以前の孤独、「孤悲」の物語と位置づけている。それはつまり、単なる「恋」ではなく、ユキノの落ち込む原因(再出発を拒んでいるもの)=「孤悲」を払うことがストーリーの根幹だということだ。
そして、それを成すための原動力が、①の「タカオのユキノへの恋心(L-L-F)」なのである。

ちなみに、「孤悲」とは万葉集の中で見られる「恋」の当て字であり、「こひ」と書いて、「こい」と読むらしい。「恋」にまつわる気持ちの中で、「あなたがいなくて寂しい」という悲しさを強調した表現といえる。
英語で言えば、恋が「I love you.」に近く、孤悲が「I miss you.」に近いといったところか。

劇中では、ユキノの「気持ちを打ち明けられないゆえの孤独と悲しみ」や、タカオの「気持ちを打ち明けてくれないゆえの孤独と悲しみ」に対応する。


予告編で明らかにされないネタバレとしては、

・ユキノがタカオの高校の教師であること

また、サブドライバーとして、

・タカオが靴職人を目指す(L)
・タカオがユキノを追い詰めた生徒に怒りをぶつける(E-G)

などがあるが、この辺はストーリーというよりは、設定(P)に近い。


■ストーリー詳細

思い出せる範囲でのストーリーは次のようなもの。

P タカオは、靴職人を目指す高校生。雨の日が好きで、雨の日はいつも学校をサボり新宿の日本庭園に行き靴のデザインなどを考えていた。

P ある雨の日、その日本庭園の東屋で、金麦を飲んでいる若い女性(ユキノ)と出会う。

P タカオは、チョコを食べながら金麦を飲んでいる彼女を変な人だと思ったが、どこかで見た事がある気がしたので声をかける。
彼女は「ない」と答えるが、タカオの制服に気がつき「ひょっとしたらあるかも」と答える。

P タカオはまた、別の雨の日、同じ東屋で彼女に出会う。

L 2人はサボり仲間として少し打ち解ける。彼女は、雨の日にまた会うかもと言って一句短歌を詠んで去る。
「鳴神(ナルカミ)の光りとよみてさし曇り、雨さへ降れや。君は留らむ」
タカオには意味が分からない。

L タカオと彼女は雨の日に同じ東屋で会うようになり、弁当を持ち寄ったりして、次第に打ち解けてゆく。タカオは次第に彼女に惹かれていく。

EG ところが、ユキノは実は味覚障害を発症しており、仕事についてもすでに止める手続きを始めていた。ユキノは自分の情けなさを憂い、元彼にも心を開けず、孤独な日々を送っていたが、タカオとの出会いがそんなユキノの心を少しづつほぐしていく。

L タカオは、彼女の悩みの多い背後を想像し、彼女が元気を取り戻せる靴を作りたいと思うようになる。

L ユキノは、タカオに弁当のお礼として、靴の専門書をプレゼントする。

L タカオは女物の靴を作ろうとしているがうまくいかないからと言って、ユキノの足を採寸する。

E ユキノは、タカオが寝ているときに「私はまだ大丈夫かな」とぽつりと不安を口にする。

F 梅雨があけ、夏になるとめっきり雨が降らなくなり、二人が会う回数は激減する。タカオは学費を稼ぐ為にバイトをし、ユキノは悶々としていた。

E 2学期がはじまり、ある日高校で、タカオは職員室から出てくるユキノにばったり出会う。実は、ユキノはタカオの高校の古典の教師だったのだ。そして、今度辞めるのだという。原因は、彼氏をとられたと勘違いした女生徒の逆恨みで、良くない噂を流され追い込まれたからだという。

G 別の日、事実を知ったタカオは、噂を流した女生徒に詰め寄り平手打ちをかます。しかし、その取り巻きにボコボコにされる。

L 雨は降らず、約束もなにもないが、タカオは日本庭園を訪れる。そこに、ユキノがいる。

L 気まずそうにするユキノに、タカオは短歌の返しの歌を詠む。
「鳴神の光りとよみて降らずとも、我は止らむ。妹し止めてば」
(雨が降らなくとも、あなたが言えば留まるのに)

E 突如、雷雨が降りはじめ、2人は東屋に駆け込むが、ずぶ濡れになってしまう。

G 体が冷えてしまった2人はユキノの自宅に行き、着替えてお茶を飲むことに。

L 2人は、しんみりと人生で一番の幸せを感じる。

F そこでタカオは、淡い恋心をユキノに打ち明ける。しかし、ユキノは年齢差や(直接的ではないが)教師と生徒という間柄から、気持ちに正直になれず、タカオの気持ちに応えられない。

F タカオは、悔しくて濡れた服に着替えなおしてユキノの家を飛び出す。

L ユキノは、タカオが出て行った後、かけがえのないものを今失おうとしていることに気がついて、後を追いかける。

L 非常階段でタカオを見つけたユキノに、タカオは悔しさを激しくぶつける。

L(G)ユキノは、それに突き動かされて大泣きしながらタカオを抱きしめる。

P 少し月日がたち、ユキノは実家のある四国で、教師として再就職する。

L タカオは、ユキノからの手紙を読みながら、いつか自分がもっと成長したら会いに行こうと心に決める。

(おわり)

マクロで見るとメインドライバーは、タカオとユキノの恋物語(L-L-F-L)に見えると思う。
しかし、そう考えるとどうしてもその後の展開が引っかかる。単純な恋愛ものなら、タカオとユキノは付き合ってハッピーエンドでもおかしくない。しかし、実際には、ユキノは四国で別の生活を始め、タカオは靴も渡せず、いつか会いに行くなんて悠長なことを言っている。まるで、別々に暮らすことを決めた「もののけ姫」のサンとアシタカのようだ。

これを読み解くには、タカオが従うドライバーが正確には2つあることを知る必要がある。それは次の2つである。

①ユキノに対する恋心(L)
②ユキノを救いたいという気持ち(G)

これらは似ているが、ストーリー上は異なる役割を果たしている。
これらの違いは、クライマックスのユキノがタカオを抱きしめるシーンで明らかになる。このシーンはユキノの本当の気持ちを語るシーンなのだが、ユキノはタカオのことを「好き」ではなく「救われていた」と言っている。これは、ユキノにとって、タカオは恋人ではなく、自分を苦しい孤独から救い出してくれた恩人であるということを物語っている。

つまり、このシーンでは恋心に対する返答(①に対する返答)が成されているわけではなく、救い出したいと言う気持ちへの返答(②に対する返答)が成されているのだ。そこに、恋の物語から孤悲の物語への昇華がある。

このシーンで、前者はタカオの広い意味での失恋(L-F)として完結し、後者はユキノを孤悲から救い出すというストーリー(E-G)として完結されている。

そう考えると、その後の2人の距離感やエピローグの展開にも合点がいく。


■伏線の解説

①和歌ついて
ユキノが詠んだ句は、万葉集の2513番で

「鳴神(ナルカミ)の光りとよみてさし曇り、雨さへ降れや。君は留らむ」

大雑把な意味は、「雷が鳴って雨が降れば、あなたを留めておけるのに」である。
こんな句を詠まれたら男なら一発でころっといってしまいそうだが、劇中では意味が分からない前提で詠まれた。後半で、返しの歌や、古典の教師であるということにつながっていく。また、少し自分の正体を明かしたいという気持ちもあったようだ。

それに対して、タカオが詠んだ返しの句は、万葉集の2514番、

「鳴神の光りとよみて降らずとも、我は止らむ。妹し止めてば」

大雑把な意味は、「雷が鳴って雨が降らなくとも、あなたが言えば留まるのに」。劇中では、「雨が降るという口実がなくても、あなたに会えるのならここに来ます」という感じだろうか。
良い演出である。
また、ユキノがタカオの後を追う最後のシーンでもこの短歌が挿入されており、そこでは短歌本来の、「妹し止めてば=あなたから行かないでと言って欲しい」というタカオの気持ちが表現されている。


②味覚障害
チョコをかじりながらビールを飲む偏食家と思いきや、実は伏線で、味覚障害という展開。弁当に自信がなかったのも、うまく味見できないという側面があったのだろう。(ただし、実際料理も下手みたいだが。)さらに、味覚障害の原因が、学校で追い込まれていることだという物語の核心へとつながっていくあたり上手な伏線の張り方である。


■いくつかの問題点

①ユキノの職業がなぜタカオの高校の教師なのか?
この設定にはかなり違和感がある。この設定により、ユキノがタカオを拒否する理由に、年齢の差だけでなく、教師と生徒という非常に倫理的な問題が加わってしまう。
倫理的問題があるとさすがに応援し難い。
また、「あったことがあるかも」で同じ学校てのはさすがに世間が狭すぎる。

②うまく行かない原因が学校での妨害工作で良かったのか?
なぜ、このような不快な設定にしたのだろうか?悪役がはっきり決まってしまう設定が良かったのか甚だ疑問である。おそらく視聴者は、原因の女生徒や、ユキノの元恋人でおそらく同僚の先生に怒りがこみ上げることだろう。
しかも、平手打ちこそしたものの、ユキノは結局辞めてしまったのだから、局所的に見るとこれは悪が倒されない、問題が解決しないバッドエンドとも取れる。
雨の日に出会うという情緒的でファンタジックな内容に、なぜ下衆を登場させる必要があったのだろうか。学校関連シーンはそのせいで後味の悪いものになっている。

③靴フラグはなぜ回収されなかったのか?
せっかく作った靴がどうして彼女の足に収まらなかったのだろうか。
もしドライバーが、「タカオがユキノの再出発を助ける」ならば、彼女が靴を履いて教壇に立っている姿が真のハッピーエンドのはずである。しかし、本作ではそうはならない。どうも監督は、靴=タカオの恋心と思っているようである。だから、靴が渡せない=失恋という結末になっているのだろう。
しかし、ドライバーの整合性から言えば、靴は恋心の象徴ではなく、恋心から派生した現実的な終着点=彼女を救うことの象徴である。恋心は叶わなかったが、救いたいという願いはかなった。ならば靴は履かせるべきである。靴を送り、その返信の手紙を読む。それがあるべきエンドである。


■改善案
できれば高校教師ではない設定にしたいが、代替案は難しそうなのでパス。唯一変更するならば、エピローグには、ユキノが靴を履いた姿を入れるということぐらいか。


2013年4月29日月曜日

思考の分解について


言語を用いた思考の分解について説明する。
思考の分解とは、ある命題をその構成要素に分解し分析する手法である。

私たちは脳の情報処理に従い、ある命題を盲目的に信じている。思考の分解は、そういった盲目的に信じている命題を問い直し、その背後にあるゲシュタルトを明らかにする。

■アプリオリな命題

-------------------------------------------------------------
ルール1:アプリオリな命題から始める。
-------------------------------------------------------------

思考の分解のスタート地点は、アプリオリな命題である。アプリオリな命題とは、無条件で真だと確信している命題を指す。平たく言えば、ある気持ちや、信念や、思い込みのことである。

人間の脳の情報処理は論理的ではない。その多くの部分は過去の記憶や情動に基づいており、それゆえに人は論理に頼らずとも決定が下せる。それが人間の強みでもあり、弱みでもある。

私たちは、「アプリオリな命題」を説明不要な大切なものだと考えている。しかし、それは必ずしも正しい意味を持っているとは限らない。

思考の分解の目的は、私たちがアプリオリな命題として表現している「何か」の正確な意味を知ることである。

逆に、アプリオリでない命題は思考の分解の対象としては、あまり適切ではない。

■否定形の禁止

-------------------------------------------------------------
ルール2:否定形を用いてはならない。
-------------------------------------------------------------

思考の分解は、一見論理学に近い。しかし、実際には大きな差異がある。それは、否定形の禁止である。これは、「○○でない」「非○○」「○○以外」といった否定表現を禁止するものである。
否定形の禁止は、概念による宇宙の分解をゆるやかに禁止する。否定形を用いることができる場合、「偶数」という言葉は、宇宙を「偶数」と「偶数でないもの」に分割する。この分割は自明であり完全である。ある概念は、少なくとも「偶数」か「偶数でないもの」のどちらかに属することになるだろう。しかし、「偶数でないもの」を我々は本当に認識できるのだろうか。それは「奇数」かもしれないし、「無理数」かもしれないし、そもそも「数字でないもの」かもしれない。そんなブラックボックスを思考の分解は禁止する。
もし、宇宙を「偶数」と「奇数」に分解したら、「偶数でも奇数でもない」何かが宇宙には取り残されることになる。思考の分解はそれを容認する。

思考の分解は、論理的で完全な分解を放棄し、主観的で不完全な分解を採用する。それは、思考の分解が真理を目指すものではなく、自身の分解を目指すものだからである。

■主体性の認識

--------------------------------------------------------------
ルール3:アプリオリな命題が定義か、経験的事実かを確認する。
--------------------------------------------------------------

あるアプリオリな命題を信じる者にとって、アプリオリな命題はアイデンティティに関わる命題である。つまり、それを否定することは困難である。
それは言語レベルを超えて定義されており、言語でそれを覆すことはできない。

つまり、思考の分解の目的は、そのアプリオリな命題を否定することではない。思考の分解の目的は、それを真偽もろとも分解することである。

そこで、まずその由来を明らかにする。

例えば、A君は『僕は弱虫だ』というアプリオリな命題を持っていたとしよう。A君のファーストステップは次のように問うことである。

「『僕は弱虫だ』は定義か、それとも経験的事実か?」

定義の場合も、経験的事実の場合もあるだろう。しかし、それはどちらでもかまわない。この問いの目的は、アプリオリな命題を作り出しているのが自分だと認識する為のものだからである。

■命題の分解

--------------------------------------------------------------
ルール4:命題を単語に分解する。
--------------------------------------------------------------

A君の次のステップは、アプリオリな命題を単語に分割することである。

『僕は弱虫だ』→『僕』と『弱虫』

『僕は弱虫だ』には真偽があるが、『僕』と『弱虫』には真偽が無い。命題は破壊される。

残るのは、『僕』と『弱虫』の間の「関係」である。脳には、バラバラなものをつなぎとめるゲシュタルト能力がある。この段階では、まだ、『僕』と『弱虫』の間には何らかの関係があると信じているが、それは若干曖昧になっている。

■単語の分解

--------------------------------------------------------------
ルール5:単語を複数の単語に分解する。
--------------------------------------------------------------

さて、ここから、命題と命題を構成する単語を本格的に破壊する。単語の分解の種類には、次のような手法がある。

①合成語分解
例:ギリシア人 → ギリシア/人

②抽象度(集合)分解
例:人間 → 男性/女性

③属性分解
例:アリストテレス → 哲学者/ギリシャ人

④和分解
例:男 → 男/女

⑤類語分解
例:かわいい → 愛しい/初々しい/キュートな

⑥定義分解
例:有理数 → 二つの整数a,b(ただしb≠0)をもちいてa/bという分数で表せる数のこと

試しに、『弱虫』を分解してみよう。

弱虫 → 弱い/虫 (合成語分解)
弱虫 → 弱虫/強者 (和分解)
弱虫 → 臆病者/泣き虫/恐がり/ヘタレ(類語分解)

このような分解によって、潜在的に「僕は弱い」や「僕は泣き虫」のような命題が発生する。これは、バラバラの単語の状態になっている状態を脳が嫌ってゲシュタルトを形成しようとするからである。しかし、さらに分解を進める。

■単語の定義

--------------------------------------------------------------
ルール6:単語を定義する。
--------------------------------------------------------------

分解によって生じた単語のうち、定義のあやふやなものを定義する。このとき、何を満たせば、そう言えるのかを意識する。一般に単語を定義するのは難しい。
定義し難いものは、さらに分解して定義を試みる。

例えば、『弱虫』は定義可能だろうか?もし、定義不能ならば、『弱虫』を分解した「臆病者」や「泣き虫」についてはどうだろうか?

ここでは、仮に『弱虫』は定義不能だが、「恐がり」や「泣き虫」は定義できたとしよう。

「恐がり」 ⇔ すぐ恐がる人
「泣き虫 」⇔ すぐ泣く人

■命題、単語の破棄

--------------------------------------------------------------
ルール7:定義不能な単語、真偽不明の命題を破棄する。
--------------------------------------------------------------

分解された単語や、それらの組み合わせによる命題のうち、定義不能な単語を用いたものや、情報不足によって真偽不明の命題を破棄する。結果的に残るのは、定義された単語による明確な命題だけである。

先の例では

『僕は弱虫だ』 → 『弱虫』が定義不能なため破棄する。
『僕は恐がりだ』 → これは新たなアプリオリな命題である。
『僕は泣き虫だ』 → これも新たなアプリオリな命題である。

となる。

このあたりの段階で、おそらく元の命題はゲシュタルト崩壊し、分解されたもののうち自明なものしか残っていないだろう。

A君が信じていたアプリオリな命題『僕は弱虫だ』は破棄され、『僕は恐がりだ』や、『僕は泣き虫だ』が採用される。これがA君の本当に信じていた命題である。

もちろん、『弱虫』を「恐がりで泣き虫のこと」と定義すれば、『僕は弱虫だ』はアプリオリに真である。しかし、この命題はゲシュタルトという意味では分解前とは若干異なっている。

なぜなら、再構成の手順の中で、『弱虫』の中の「恐がりでも泣き虫でもないなにか」が宇宙に取り残されてしまうからである。

人間は、曖昧なものを信じることができる。しかし、それは必ずしも言語で表現できるものではない。思考の分解は、言語の力を借りて自身の信じているものを明確にする。それは、曖昧な何かを捨てることであり、明らかなゲシュタルトを構成し直すことである。